先週の保育中の俯瞰動画に、問題のシーンがあった。問題というと語弊があるかもしれない。より正確には、その動画の中に含まれる現象に関して、関係各者から大きな議論が巻き起こり、僕にはいまだその解釈や次のアクションがはっきりと見えていない、複雑なシーンがあった。僕は一週間の間、そのシーンに関してテロップ入りの動画を何本も作ったし、深夜に園長先生と(you’re firedと言われかねないほどの)激論を戦わせたし、今日に至っても、園長先生やクラスのリーダーともその場面に関する新たな背景が語られるほどの謎めいたシーンであった。でも謎めいた、とまで思っているのは僕だけかもしれない。恐らくはいまだ自分の中に、保育に対する何の評価軸を持っていない僕だから、混乱したままなんだろう、とも思う。

この場面の内容については、そんなわけで僕に語る資格はないので語らずにおく。ただ、この大議論には、理想的な保育士のあり方についての多面的な考えが含まれていた。「ここで、こうできたはず」「この子は、このように困っていたのでは」といった、現場ならではの省察を多々共有してもらえたおかげで、これまで勘違いしていた子どもとの関わり方に気付くところがあった。

それは、言葉にすれば単純なこと。子どもの困り感に思いを馳せること。その理解に基づいて行動すること。くらき永田の保育士は、僕がこれまで考えていたよりもはるかに積極的に、子どもに誘いをかけていた。僕はこれまで、子どもを尊重するとは子どもが全てを発見すること、いわば放任だと思っていたので、自分の目の前にいるも離れるも自由、集中して遊ぶのも、退屈してゴロゴロするのも、他の子とのトラブルから気づきを得るのも、基本的には個人の内面で何かが自動的に起きるのを待つものだという接し方をしていた。しかし、ここで求められるのはそういう傍観者的な関わりではなく、必要に応じて子どもを満たしてあげられる積極的な(それでいて、子どもが主体的に自分の活動を発見できるようになったら消極的な)存在になることのようだ。このことは、くらき永田のエッセンスが詰まった「見守り12箇条」にも含まれていて、前から言葉の上では知っていたのだが、ここまできてやっと、自分の中で咀嚼できる文脈ができてきたということなのだろう。

それを踏まえて、今日の保育では、目の前の子どもが満足しているのか、困っているのかを注意して見ることにした。その結果、遊び方が分からなかったり、欲しいものが手に入らないために、遊べていない子どもが、結構たくさんいることを発見した。そしてそのような子に、ない知恵を絞りつついろいろアクションをかけてみると、おそらく今までであれば他の子にちょっかいを出したり、走り出したりしたであろうと思われるシーンでも、自分の前にとどまって、それなりに遊んでくれることが増えたし、声かけもうまくいくことが多くなった。今までも子どもを見ていたようで、全然見ていなかったわけである。副次的効果として、夕方遅くなっても自分はいつもほど疲れを感じることがなく、それなりに子どもと楽しく接することができたと思う。

また、今日はリーダーが非常に事細かに指導してくれて、保育士としての動き方はもちろん、特定の子に関して、自分たちはどのような接し方が必要だと考えているか、また、いま眼前で起こっていることについても、自分ならあの子を誘う、なぜなら…など、すぐに役立つ知識を多々インプットしてくれたことも大変ありがたかった。それに添えて「私はこのようなことを、誰からも教わらなかったので自分で発見した。自分なりのやり方を見つけるまでには長い時間がかかった。」とも。人から教わるのと、自分で発見するのとでは、理解の内容が違うとのこと。それは確かにその通りだと思う。公式をただ教わるのと、自ら公式を導出するのとでは、必要とされる理解の深さが全く違うだろうし、それを活用する際にも、公式の文脈に対する理解が大きな影響を与えるだろう。自分で発見するのが理想的ではあろう。しかし時間はかかるのも確かで、もし僕が公式を教えてもらえずにいたなら、週一のパートからそれを発見するのに10年単位の時間がかかるだろう。エッセンスを教えていただけることは大変ありがたい。また、保育士の流動性が高い昨今、ある保育園のやり方に順応する時間を短縮することには、社会的ニーズもきっとあるだろう。

また、きっと公式を自分で発見できる人とできない人がいて、自分で発見できる人は稀であり、昔と比べて近年の教育は手厚く教える方に傾いてきていることは確かだろうと思う。芸は盗むもの、先輩は教えない、というのは減ってきているのではないだろうか。乳幼児期ともなれば当然である。子どもが全てを発見するものと考えて放任することと、積極的に遊びに誘うこととを対比させることとの類似点も感じたりした。指導にあたるものと、生徒との距離感という観点からは、きっとこの話題は乳幼児に限った話ではなく、小中学校まで進んだ自分の息子たちにも、リーダーと僕の関係にも十分通じる話だろう。僕が保育について自分で気づけるようになったら、リーダーの接し方もだんだん消極的になっていくに違いない。

もちろん失敗もあった。トイレ掃除の下手さは相変わらずであった。またもっと悪いことに、あるときどう誘っても椅子に座ってくれない子どもに対して、一瞬苛つきを感じてしまった。まずいと思ったので、物理的にその子から離れた。もともと何事も自分中心にしか考えられない僕が、子どもの立場になって考えるというのは、非常に難しい。別に座らなくたって、大きな問題はないのだ、と、いつでも思えるようになりたい。それから、子どもを急激に動かしてしまうことがあった。子どもはかなり驚いていた。その時は、子どもを管理するような気持ちでいたことがよくなかった。

そんなわけで、新しい地平が見えた日ではあったが、相変わらずのところもあり、盛りだくさんの1日であった。

ついでだが今日は新しいつけ麺屋を開拓した。いつもの武双は売れ切れる時間帯だったので、今日は横浜ポルタ内の舎鈴に行ったところ、まず改札から近かったのと、麺が出てくるまでがすごく早い、さまざまなスパイスが用意されてて、変化する味わいを楽しめる、つけ汁が冷めたら、一回だけ無料おかわりできる。など、なか- なかの店であった。大盛り(400g)にしても武双より50円安いというみみっちいメリットもあった。今後はここ率が増えそう。

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